【チェンソーマン】パワーという風呂すら入らないのに人気一位の “クズ可愛い” ヒロイン

少年漫画の歴史において、数多くのヒロインが生まれては消えていきました。

清純派、ツンデレ、クール系…そのどれもが、主人公を支え、読者の心を掴んできました。

しかし、そんなヒロイン像の常識を根底から覆す存在が、突如として現れたのです。

その名は、パワー。

そう、あなたもご存知、『チェンソーマン』に登場するあの血の魔人です。

彼女は平気で嘘をつき、責任をなすりつけ、トイレを流さず、野菜を投げる。

およそヒロインと呼ぶには問題行動が多すぎるキャラクター。

にもかかわらず、公式人気投票では主人公デンジやミステリアスな上司マキマを抑え、堂々の1位を獲得。

この現象、一体どう説明すればいいんでしょうか。

今回は、なぜ我々がこの「クズカワ」な悪魔っ娘に心を奪われてしまうのか、その魅力の正体を分析していこうと思います。

擁護不能な「クズ」っぷり。だが、それがいい

まず、パワーの魅力を語る上で避けては通れないのが、その清々しいほどのクズっぷりです。

彼女の言動を振り返ってみましょう。

  • 重度の虚言癖: 自分が有利になるなら、息をするように嘘をつきます。さっきまで「好き」と言っていた食べ物を「嫌いじゃ」と平然と言い放つのは日常茶飯事。
  • 責任転嫁のプロ: 自分のミスは即座に他人のせい。バディであるデンジは何度濡れ衣を着せられたことか。
  • 傍若無人な振る舞い: 人の家の風呂で平気でウンコし(そして流さない)、他人の食べ物を強奪し、寝ているデンジから勝手に血を吸う。

…こうして書き出すだけでも、常識人なら眉をひそめる行動のオンパレード。

普通なら「なんだコイツ」で終わってしまうはずです。

しかし、不思議と彼女のことは憎みきれない。むしろ、そのダメっぷりが愛おしくさえ感じてしまう。

この感情の源泉は、彼女の「クズ」が、計算されたものではなく、非常にプリミティブな欲求に基づいているからではないでしょうか。

悪意なき「子供」としての在り方

パワーの行動原理は、驚くほどシンプルです。

「ワシが一番!」「嫌なものは嫌!」「欲しいものは欲しい!」

これは、社会性や理性を身につける前の、幼い子供のそれに極めて近い。

彼女の虚言やワガママには、他人を陥れてやろうというような、陰湿な悪意が感じられないのです。

ただ、その場の恐怖から逃れたい、面倒事を避けたい、美味しいものを食べたい。

その短絡的な思考が、結果として周囲に大迷惑をかける。

だからこそ、我々は彼女の行動に呆れつつも、「まあ、パワーだからな…」と、どこか生暖かい目で見守ってしまうのかもしれません。

完璧なヒロインではなく、手のかかる妹やペットのような存在。

この「欠点だらけ」な部分こそが、キャラクターに強烈な人間味(魔人ですが)を与え、読者の庇護欲をくすぐるのでしょう。

“偽りの家族”で育まれた、本物の絆

そんなパワーがただのトラブルメーカーで終わらなかったのは、間違いなく「早川家」の存在があったからです。

保護者役の早川アキと、同居人兼バディのデンジ。

当初は衝突ばかりだったこの奇妙な共同生活は、パワーの内面に少しずつ変化をもたらします。

デンジとの関係性:相棒以上、恋人未満の「兄妹」

特にデンジとの関係は、この物語の大きな魅力の一つです。

最初はニャーコを取り戻すためにデンジを騙し、売り飛ばそうとさえしたパワー。

しかし、そんな自分を救ってくれたデンジに対し、彼女は少しずつ心を開いていきます。

もちろん、その後もケンカは絶えません。

デンジも、他の女性キャラにはデレデレする一方で、パワーにだけは容赦ないツッコミを入れる。

この恋愛感情の介在しない、まるで気の置けない兄妹のようなやり取りが、実に心地よい。

互いに利害関係なく、ただ隣にいるのが当たり前の存在になっていく。

この過程が丁寧に描かれたからこそ、読者は二人の絆に感情移入し、パワーというキャラクターを深く愛するようになったのではないでしょうか。

ニャーコという唯一無二の「愛」

人間を常に見下しているパワーが、唯一にして最大の大切なもの。

それが、愛猫の「ニャーコ」です。

普段の傲岸不遜な態度はどこへやら、ニャーコのことになると途端に必死になる。

この一点があるだけで、パワーというキャラクターに圧倒的な深みが生まれます。

「ポチタを二度と撫でられないと言っていたデンジの気持ちがわかった。酷い気分じゃな」

自己中心的な彼女が、初めて他者の痛みに共感した瞬間です。

どんなにクズでも、彼女には守りたいものがあり、愛する心がある。

このギャップが、読者の心を強く揺さぶるのです。

作者の“業”が生んだ奇跡のキャラクター

さて、ここからは少しゲスい話になりますが、パワーというキャラクターの成り立ちを探ってみましょう。

作者の藤本タツキ氏は、自身の好みを「高圧的で理不尽な女性」と公言しています。

これは有名な話ですが、彼が大学時代に体験したエピソードが、パワーの人物像を解き明かす鍵になるかもしれません。

ある日、学校で自分の自転車がひっくり返されていた。

その犯人は知人の女性で、彼女はこう言い放ったそうです。

「お前の自転車をひっくり返してやったぞハハハ!」

…普通なら激怒する場面ですが、作者はこの瞬間に「幸せを感じた」というのです。

この理不尽極まりない行動、いかにもパワーがやりそうなことだと思いませんか?

作者自身の強烈なフェティシズムが、パワーというキャラクターに注ぎ込まれている。

作者が「動かしていて一番楽しい」と語るのも当然でしょう。

作り手の「好き」という感情がダイレクトに反映されたキャラクターは、得てして生命力に満ち溢れ、読者を惹きつけるものです。

ちなみに、パワーの名前の由来は天使の階級の一つ「能天使(Powers)」。

その尊大な言動とは裏腹な、神聖な名前とのギャップもまた、計算された皮肉が効いていて面白いところです。

結論:我々はなぜパワーを愛してしまうのか

ここまで分析してきたように、パワーの魅力は単なる「クズで可愛い」という言葉だけでは片付けられません。

  • 完璧ではない「人間味」あふれる欠点
  • 他者との関係性の中で見せる、不器用な「成長」
  • 作者の強烈な個性が生み出した、唯一無二の「生命力」

これらの要素が複雑に絡み合い、パワーという奇跡的なキャラクターを形成しているのです。

彼女は、綺麗事だけでは語れない人間の(魔人の)本質的なダメさや愛おしさを体現しています。

だからこそ、我々は彼女のどうしようもない行動に頭を抱えながらも、次の瞬間にはその笑顔に救われてしまう。

そう、結局のところ、俺たちはどうしようもなく、パワーのことが好きなのです。

それでいいじゃないですか。

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