進撃の巨人 結末への賛否を本音で整理

※本記事は『進撃の巨人』原作139話および完結編アニメの結末に触れます。未読・未視聴の方はご注意ください。

で、本音のところ、どうなの?――『進撃の巨人』の結末。原作完結が2021年4月、アニメ完結編後編の放送が2023年11月。気づけば原作完結からもう5年が経つわけだけど、ネットを覗くと今もなお「神回」「ひどい」が同じ温度で並んでいる。正直に言うと、ここまで意見が割れる完結マンガも珍しい。今日はその「なぜ割れるのか」を、煽りも擁護一辺倒もなしで整理してみたい。

で、なぜ意見がこんなに割れるんだろう?

ぶっちゃけ、賛否が割れる作品はいくらでもある。でも『進撃』はちょっと事情が違う。「物語の出来」よりも「読者ごとに何を期待していたか」のズレが、そのまま評価のズレになっているからだ。

整理すると、論点はだいたい3つに集約できる。

論点①:エレンの最後の弱音は「らしくない」のか

最終話「あの丘の木に向かって」で、エレンはアルミンに本音を漏らす。ミカサを誰にも渡したくない、10年以上引きずってほしかった――。あの強い意志で突き進んできた主人公が、最後にこんな未練を見せるとは思わなかった、という声は多い。

一方で、地ならしを引き起こした主人公が完璧な英雄として死ぬ方が逆に違和感だ、という見方もある。要するに「エレンというキャラクターをどこまで人間として描くか」の解釈差なんだと思う。

論点②:地ならしの「被害」が描き切られていない

これは構造的な指摘で、けっこう本質を突いている。人類の約8割を踏み潰した出来事の被害者側の視点が、最終話ではほとんど映されない。残された島の外の世界がどうなったのか、具体的な姿はあえてぼかされている。

「重すぎる罪を描いたわりに、罪の重さの描写を最後だけ省いた」という不満は、否定する側のいちばん芯にある指摘だと思う。

論点③:「開かれた結末」を許せるかどうか

ラストの「巨大な木と少年」のカット。あれを「再び巨人の時代が始まる暗示」と読むか、「平和は脆いという作品のテーマの最終確認」と読むかで、読後感は180度変わる。

明確な答えを置かなかったことを誠実と取るか、責任放棄と取るか。ここがいちばん読者を二分している。

「ひどい」と言われる側の言い分は妥当なのか?

気持ちは分かる、というのが正直なところだ。否定側の言い分には、感情論じゃない筋の通った部分がちゃんとある。

たとえば、エレンが「理由なんてわからない。ただそうしたかった」と告白するくだり。これは作品テーマ「自由」への究極の答えとして読めば強烈な一行なんだけど、初読でいきなり食らうと「は? 11年の物語の答えがそれ?」と感じても無理はない。

あるいはアルミンが「僕たちのために虐殺者になってくれてありがとう」と言う場面。後から読めば「虐殺者」という単語をわざわざ選んでいる、つまり行為そのものは肯定していない、と分かる。でも初読時に同じ温度で受け取れる人は決して多くない。

こういう「読み直して初めて意味が立ち上がる仕掛け」が多すぎるのが、最終話の評価を割っている大きな要因だ。少年マガジン本誌で1話ずつ追っていた人と、単行本で一気に読んだ人では、印象が違うのも自然だと思う。

つまり「ひどい」という声の半分は、物語の質ではなく「一発読みで理解しろという要求の重さ」への反応だ。それを作品の罪と呼ぶか、読者ごとの相性と呼ぶか。ここの線引きで、評価が変わる。

じゃあ5年経った今、何が見えてきたのか?

連載完結から5年、アニメ完結編が出てから2年以上が経つ。当時のSNSの熱気が落ち着いた今、いくつか見えてきたことがある。

ひとつは、再読・再視聴で評価が上がる人が一定数いるという事実。「ひどい」と最初に書いた人が、数年後にもう一度読み返して「あの選択しかなかったかも」と書き直す光景は、SNSや個人ブログでけっこう見かける。これは作品の側に「読み直しに耐える構造」があるという証拠だと思う。

もうひとつは、2024年に公開された劇場版『THE LAST ATTACK』で完結編が映画として再構築されたことで、結末を映画館の暗闇で一気に受け取った観客層が新たに生まれたこと。テレビ放送を毎週追っていた当時とは違う温度で、最終局面が「ひとつの長い決着」として体験されている。

そして大事なのは、5年経っても作品が話題から消えていないという事実そのものだ。「神回」と「ひどい」のどちらの側にいる人も、この作品について何かを書き続けている。普通、つまらない結末の作品はそもそも語られなくなる。

本音のところ、筆者はどう見ているか

正直に言うと、自分は肯定側にいる。ただし「全肯定」ではなくて、「あの結末以外を選ぶ方が物語として嘘になっていたと思う」という意味での肯定だ。

エレンが完璧な殉教者として描かれていたら、たぶん自分は逆に冷めていたと思う。8割を殺した主人公が、最後の最後で「ただそうしたかった」と漏らしてしまう不格好さ。あの一行がなかったら、地ならしという出来事の重さがむしろ嘘になる。

地ならし被害の描写が薄い件についても、これは欠落というより「島の外を描かないこと」自体がメッセージなんじゃないかと感じている。壁の外を見るために始まった物語が、最後はまた「島の内側からの祈り」で閉じる。皮肉な円環構造として読むと、けっこう怖い。

とはいえ、これは自分の読み方であって絶対的正解じゃない。「ひどい」と感じた人の感覚も、ちゃんと作品の中にある材料から生まれている。どう受け止めるかは、読んだ人それぞれが決めていい――というのが、5年経った今の率直なところだ。

それでも『進撃の巨人』が描いたもの

結末への賛否は、たぶん10年後もまだ続いている。でもね、これがあるから『進撃の巨人』は面白いんだ。

11年7か月の連載で読者を飽きさせず、完結から5年経っても再読で新しい解釈が生まれ続ける。「ひどい」と書いた人ですら、結局この作品について語り続けている。それは作品に掴まれているという証拠だ。

答えを用意してくれる優しい物語じゃない。でもその不親切さの中に、自分で考え続ける自由がある。あの丘の木に向かって歩く最後のページが、今も読み返すたび少しずつ違って見える。


本当はこのテーマ、論点ごとに1記事ずつ書きたかった。ジークの最期について、ヒストリアの選択について、リヴァイのその後について――書きたいことが連鎖して止まらなくなる作品なので、続きはまた別の機会に。辛口路線を貫きたいのに、結局いつも作品愛が漏れてしまうのが筆者の弱点である。

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