MAO 考察|高橋留美子が『呪い』で描く加害と被害の連環

  • 2026.06.26
  • MAO

今日も、深く読みましょう。高橋留美子の『MAO』を読み進めるとき、私の頭から離れない問いがある。この物語の「呪い」とは、いったい誰から誰へ手渡されているものなのか——という問いだ。被害者だったはずの者がいつのまにか加害者の側に立っている。その連環の構造こそが、本作の真のテーマではないか。本稿では摩緒と菜花、そして「猫鬼」を軸に、留美子作品が描く加害と被害の連環、すなわち業(カルマ)の主題を読み解いていきたい。

※本記事はネタバレ(キャラクターの素性・呪いの因縁に関わる設定)を含みます。未読の方はご注意ください。

『MAO』という作品の前提を整理する

基本情報——大正と現代を行き来するダークファンタジー

『MAO(マオ)』は、高橋留美子による漫画で、『週刊少年サンデー』にて2019年23号から連載されている。単行本は2026年6月時点で既刊が積み重なり、累計発行部数も連載早期の2021年10月時点で120万部を超えていた、息の長い一作である。『境界のRINNE』連載終了後、留美子が「次はダークファンタジーを」と担当編集と構想を練るなかで、「呪い」を中核テーマに据えて生まれたのが本作だと語られている。

物語は、現代(2019年)を生きる中学生・黄葉菜花(こうよう なのか)が、かつて家族全員を喪った事故現場をふたたび通りかかった際、大正時代(大正12年・1923年)へとタイムスリップするところから動き出す。そこで出会うのが、若き陰陽師・摩緒(まお)だ。摩緒は菜花を見て「お前は鬼だ」と告げる。翌日から菜花の身体能力が説明のつかない形で覚醒していく——という、留美子らしい怪異と日常が地続きになった導入である。現代と大正を往還する構図は、かつての『犬夜叉』が現代と戦国を結んだ構造を想起させるが、舞台をより近い過去に置いた点が新しい。

なぜ「加害と被害の連環」というテーマで読むのか

私がこの作品を「呪いの物語」ではなく「呪いを渡し合う物語」として読みたいのには理由がある。本作の鍵を握る妖「猫鬼(ねこおに)」は、単なる倒すべき敵として配置されていない。摩緒自身が、過去に師の宝物殿へ忍び込んだ猫鬼と対峙して呪いを受け、その際に猫鬼の身体が自らの身体へ融合してしまった存在なのだ。人の寿命を操る術を猫鬼が会得したことで、摩緒もまた不老不死に近い身となり、1923年の時点で900年以上を生きている。つまり加害者(猫鬼)と被害者(摩緒)が一つの身体に同居している。この「敵が自分の内側にいる」という設定こそ、本作の倫理的な核だと考えられる。だからこそ私は、勝敗ではなく因果の連鎖という補助線でこの作品を読み解きたい。

核心的な考察——呪いはなぜ「連環」するのか

分析視点1:摩緒という「被害者にして加害者」の身体

まず注目したいのが、摩緒という存在そのものが加害と被害の境界を溶かしている点だ。一般的な伝奇・退魔ものでは、呪いをかける者と、それを祓う者は明確に分かれている。祓い手は善、呪い手は悪、という単純な配置である。ところが『MAO』はその前提を最初から崩している。

その根拠は、摩緒の不死そのものが「猫鬼との融合」に由来するという設定にある。彼は呪いの被害者でありながら、猫鬼の寿命操作という術を体内に抱え込んでしまった。すなわち、彼が生き続けること自体が、本来死ぬはずだった者が死なずにいる「秩序への侵犯」になっている。具体例として、摩緒が900年を超えて生きているという事実を考えてみてほしい。これは恩寵ではなく、刑罰に近い。終わるべき生が終われないこと——留美子はそれを「呪い」と呼んでいるのだと考えられる。被害として始まったものが、生き永らえるという形で世界に負荷をかけ続ける。ここに、被害者が加害の構造へ巻き込まれていく最初の歯車がある。

分析視点2:菜花という「もう一つの被害者」が示す連鎖の伝播

第一の視点が摩緒個人の内的な連環だったとすれば、第二の視点はその連環が他者へ伝播していく様を扱いたい。ここで重要なのが菜花の存在である。

菜花もまた、摩緒と同じく猫鬼に呪われた者として描かれる。興味深いのは、彼女が現代で家族を喪った事故の記憶を抱えており、その喪失そのものが大正への扉を開いた点だ。被害の記憶が、新たな因縁の現場へと彼女を運んでいく。根拠として挙げたいのは、彼女が単なる巻き込まれ型のヒロインに留まらないことである。留美子は菜花を、摩緒の「相棒(バディ)」として、物語を動かす能動的な存在に据えたと語っている。つまり被害者が被害者のまま保護されるのではなく、呪いの当事者として連環の中に立たされる。

具体例として考えたいのは、二人が「猫鬼の呪いを解くため」に共に旅へ出るという構図だ。これは一見すると救済の物語に見える。だが私はここに留美子の冷徹な視線を読む。呪いを解こうとする行為そのものが、過去の因縁を掘り起こし、新たな対立や犠牲を生む。被害者が解決に動けば動くほど、連鎖の輪はむしろ広がっていく。加害と被害は固定された役ではなく、立場が反転し続ける動的な関係なのだと考えられる。

分析視点3:「業(カルマ)」としての連環——平安から大正への九百年

前二項を踏まえて、最も発展的な論点に進みたい。本作の呪いは、個人と個人の間で完結しない。平安から大正へと、およそ九百年にわたって受け継がれてきた因縁として描かれている点が決定的だ。

ここで私が用いたいのが「業(カルマ)」という補助線である。業とは、ある行為が原因となって別の結果を生み、その結果がまた次の原因になっていく、終わりのない因果の鎖を指す。『MAO』の呪いは、まさにこの構造を持っている。主張としてはこうだ——本作の「呪い」は超自然的な現象であると同時に、人間の行為が世代を超えて連鎖していく倫理的なメタファーである。

その根拠は、登場人物たちの因縁が一対一の私怨に収まらず、師弟・兄弟弟子・時代をまたいで複層的に絡み合っている点に求められる。具体例として、摩緒のかつての兄弟子・百火(びゃっか)の存在が挙げられる。火属性の陰陽師である百火は、平安の時代に摩緒が師の後継者に選ばれた経緯に関わり、大正では「火の首使い」として旅芸人一座に身を寄せている。一人の選択(誰が後継に選ばれたか)が、何百年も後の対立の火種として残り続ける。これは個人の善悪では割り切れない。誰かが悪意を持ったからではなく、過去の出来事が消えずに次の時代へ持ち越されること自体が、新たな苦しみを生む。留美子はここで、呪いを「個人の罪」から「構造としての業」へと拡張していると考えられる。だからこそ、誰か一人を倒せば終わる物語にはなっていないのだ。

他作品との比較——『犬夜叉』からの距離が示すもの

留美子のこの主題は、突然現れたものではない。比較として軽く触れたいのが『犬夜叉』だ。現代と過去を往還する構造は両作に共通する。だが『犬夜叉』が、奈落という明確な「諸悪の根源」を据え、それを討つことで因縁が決着へ向かう求心的な構造を持っていたのに対し、『MAO』は加害者と被害者が同一の身体に融合し、因縁が九百年にわたって拡散していくという、より分散的で出口の見えにくい構造を取っている。

留美子自身、本作は綿密にストーリーラインを組み立てたミステリー仕立てであり、これまでにない新しい取り組みだと述べている。ここから読み取れるのは、「明確な悪を倒す」という少年漫画の王道から、「誰もが因果の網の中にいる」という、より両義的な世界観への移行だ。加害と被害がきれいに分かれていた世界から、それが溶け合った世界へ。現代を生きる私たちにとっても、被害者・加害者という二分法だけでは捉えきれない出来事は多い。本作の連環という主題は、その複雑さを物語の形で差し出していると考えられる。

まとめ——『MAO』から受け取れるもの

『MAO』の呪いは、誰か一人の悪意から生まれたものではなく、被害者がいつしか加害の構造へ組み込まれ、その立場が反転し続ける「連環」として設計されている。摩緒の融合した身体、菜花への伝播、九百年の業——これらはすべて、加害と被害がひとつながりであることを示している。倒すべき敵が自分の内側にいるとき、人はどう生きるのか。それでも誰かと共に呪いを解こうとすることに、意味はあるのか。私はまだ答えを持っていない。あなたはこの連環の物語に、どんな出口を見出すだろうか。よければ、あなたの読みも聞かせてほしい。


正直に白状すると、私はいつも「構造」から作品に入るのだが、『MAO』だけは摩緒の九百年という時間を想像した瞬間、分析より先に胸が詰まった。終われない生の重さは、図解できない。そこだけは、うまく言葉にできないままでいる。

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