進撃の巨人 考察|「自由」とは何だったのか

今日も、深く読みましょう。「進撃の巨人」を語るとき、誰もが口にする言葉があります。「自由」です。けれど、考えてみてください——この物語で言われる「自由」とは、結局のところ何だったのでしょうか。壁の外に出ること。海を見ること。あるいは、誰にも縛られずに生きること。同じ言葉が、巻が進むにつれて少しずつ意味を変えていく。本記事では、この「自由」というモチーフがエレン・壁の内外・物語全体でどう提示され、どのように変質していったのかを、結末の核心には踏み込まずに考察していきます。

【ネタバレ注意】本記事には「進撃の巨人」の序盤〜中盤の展開、および「自由」というテーマに関わる設定への言及が含まれます。結末の決定的な内容は避けていますが、未読の方はご留意ください。

「進撃の巨人」について — 自由というテーマに注目する理由

基本情報

「進撃の巨人」は諫山創による漫画作品で、2009年9月に連載が始まりました。巨大な「巨人」が支配する世界で、三重の巨大な壁の内側に逃げ込んだ人類と、それに抗う人々を描くダークファンタジーです。主人公エレン・イェーガー、その幼馴染であるアルミン・アルレルトとミカサ・アッカーマンを中心に、物語は壁の内側の閉塞から始まり、やがて壁の外、そして「マーレ」という大国との関係へと舞台を広げていきます。エルディア人とマーレ人の対立、九つの巨人の継承、過去と未来をめぐる設定など、構造は重層的ですが、その底にずっと流れているのが「自由」という問いです。

なぜこのテーマか

私がこの作品を何度も読み返してしまうのは、「自由」という一見シンプルな言葉が、物語の中でまったく一枚岩でないからです。ここで注目したいのが、「自由」を語る登場人物それぞれが、まるで違うものを指している点です。アルミンにとっての自由は、本で読んだ「壁の外」——海や砂の大地や氷雪の世界への憧れでした。エレンにとっての自由は、最初はそれと重なりながら、やがて別の質を帯びていく。同じ単語が指す対象が、人によって、時期によってずれていく。この「ずれ」をていねいに追うことが、この作品を深く読む鍵になると考えられます。表面的に「自由を求める物語」と要約してしまうと、その豊かさはこぼれ落ちてしまうのです。

「自由」というテーマの核心的な考察

分析視点1:壁の内と外 — 「鳥かご」としての自由

第一に注目したいのは、「自由」が空間的な対比として提示されている点です。物語序盤の自由は、きわめて素朴な形をとっています。壁の内側=不自由、壁の外側=自由。この単純な二項対立から物語は出発します。その根拠として象徴的なのが、繰り返し描かれる「鳥」のモチーフです。壁という人類を閉じ込める巨大な構造物を、作中は一種の「鳥かご」として描き、その上空を自由に飛び越えていく鳥が、束縛されない存在の象徴として配置される。エレンが空を見上げるという所作そのものが、外への渇望の表現になっているわけです。具体例として、アルミンが幼いエレンに「壁の外の世界」を語る場面を思い出してください。海、火の水、氷の大地、砂の世界——本でしか知らないその情景が、二人にとって自由の原風景になる。つまり最初の「自由」とは、「ここではない、どこか」への憧れとして提示されているのです。

分析視点2:知ることで失われる自由 — エレンの変質

第二の側面は、第一の視点と緊張関係に立ちます。壁の外に出れば自由になれる——その前提は、物語が進むにつれて静かに崩れていく。ここが「進撃の巨人」の凄みだと私は考えます。主張すべきは、この作品において「自由」と「真実を知ること」は両立しないどころか、しばしば敵対するという点です。根拠として、壁の外にあったのは理想郷ではなく、マーレという別の大国であり、そこでエルディア人は迫害されているという現実でした。憧れの先には、また別の檻があった。具体例として象徴的なのが、巨人の能力をめぐる設定です。「進撃の巨人」という巨人は未来を、「始祖の巨人」は過去を見通すとされる——時間に縛られた力です。自由を渇望した者が、もっとも時間に拘束された力を宿す。この皮肉な構造において、エレンは「自由を求めて生まれてきた」と語りながら、知れば知るほど選択肢を失っていくように見える。外を知ることが、かえって彼を不自由にしていくのです。

分析視点3:「自由」と「他者の自由」の衝突

前二項を踏まえると、第三の論点が浮かび上がります。それは、「自分の自由」が必然的に「他者の自由」とぶつかるという、この作品の倫理的な核心です。主張すれば、「進撃の巨人」の後半は、自由という言葉が個人の解放から、民族や国家の生存をめぐる問題へとスケールを変える過程だと読めます。根拠として、エレンが口にする自由は、ある時点から「エルディアという国・民族が脅かされずに生きること」へと意味を移していく。それは壁の外への素朴な憧れとは、もはや別物です。具体例として、彼の選ぶ手段が、他者の生存と真っ向から衝突していく展開を挙げられます。誰かの自由を最大化しようとすれば、別の誰かの自由が踏みにじられる。興味深いのは、作品がこの矛盾を解消せず、最後まで読者に突きつけ続けることです。「あなたにとっての自由は、誰かの不自由の上に成り立っていないか」——この問いこそ、序盤の素朴な「壁の外への憧れ」が、最終的に到達した重さなのだと考えられます。

現代への示唆 — 私たちの「自由」と重なるもの

この「自由の逆説」は、決して空想の物語にとどまりません。私たちが日常で使う「自由」もまた、しばしば「何かからの自由」(壁の外へ)と「何かへの自由」(自分の意志で選ぶこと)の二つを曖昧に混ぜています。「進撃の巨人」が鋭いのは、この二つが必ずしも一致しないと示した点です。束縛から逃れた先に、より大きな束縛が待っていることもある。自分の自由を追求した結果が、他者の自由を奪うこともある。情報を「知る」ことが、必ずしも私たちを自由にしないこともある——SNS時代を生きる私たちには、妙に刺さる構造ではないでしょうか。普遍的なテーマを、巨人という非現実的な装置を通して描き切ったところに、この作品の射程の広さがあると考えられます。

まとめ — 「自由とは何だったのか」という問いの残り方

振り返ると、「進撃の巨人」における自由は、「壁の外への憧れ」から始まり、「知ることで失われるもの」へ、そして「他者とぶつかるもの」へと、段階的に意味を変えていきました。一つの言葉が、これほど多層的に使われる物語はそう多くありません。だからこそ、この作品は「自由を勝ち取る話」ともいえるし、「自由などなかったという話」ともいえる。どちらが正解か、私は断定しません。むしろ、あなたが読み終えたとき、「自由」という言葉がどんな表情をしていたか——それを聞いてみたいのです。あなたにとって、この物語の自由とは何だったでしょうか。


正直に告白すると、この作品は私にとって冷静さを保つのが一番難しい一本です。「自由を求めて生まれてきた」という一節を思い出すと、いまだに胸の奥がざわつく。分析者として距離を取ろうとしても、つい熱が入って字数が止まらなくなる——今回もかなり削りました。それくらい、何度読んでも問いが残り続ける物語なのだと思います。

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