ジークの最期はなぜかわいそうと言われるのか

で、本音のところ、どうなの?ジーク・イェーガーというキャラは、作中で最も多くの人を死なせた側の人間だ。それなのに読み終わったあと「かわいそう」という言葉が読者から出てくる。わかる、あれはね……同情していい相手なのか自分でも判断がつかなくなる、あの居心地の悪さが理由だと思う。整理していきたい。

【ネタバレ注意】本記事には『進撃の巨人』最終盤(原作第137話・最終34巻)までの結末に触れる記述が含まれます。

で、ジークって結局どういう人物だったの?

まず前提を揃えたい。『進撃の巨人』は諫山創による作品で、講談社『別冊少年マガジン』にて2009年9月から2021年4月まで連載され、全34巻・全139話で完結した。ジークはその全編を通して立ち位置が変わり続けた人物だ。

彼はグリシャ・イェーガーとダイナ・フリッツの息子で、エレンの異母兄にあたる。マーレ側の戦士として「獣の巨人」を継承し、パラディ島側から見れば長く最大級の脅威だった。

その一方で、彼の人生の起点にあるのは幼少期の一つの選択だ。反マーレ活動を続ける両親の動きが上層部に露見しかけたとき、ジークは両親を当局に密告する。

この密告は彼が単独で思いついたものではない。先代の「獣の巨人」継承者クサヴァーが、ジークと祖父母だけでも助かるようにと勧めた苦肉の策だった。結果として両親は楽園送りとなり、ジークだけが残される。

そして彼が生涯抱えることになる「安楽死計画」——始祖の巨人の力ですべてのエルディア人から生殖能力を奪い、民族間の争いの歴史を一代で終わらせるという構想——も、もとはクサヴァーの考えを継いだものだ。キャッチボールをしながら聞かされた思想を、ジークは自分の生きる理由として引き受けた。

なぜ「かわいそう」と言われるのか

読者の同情が集まる理由は、だいたい4つに分けられる。

1. 選択肢が最初から与えられていなかった

密告の場面を「親を売った子ども」として読むと最悪の行為に見える。だが実際には、ジークが密告しなければ祖父母を含めて全員が処分される状況だった。

子どもが背負う判断ではない。しかも「自分で選んだ」という形にされてしまっている。ここが後年まで彼を縛り続ける。

2. 思想が自分のものではなかった

安楽死計画はジークの発案ではなく、クサヴァーから受け継いだものだ。父グリシャからは「エルディア復権」という使命を押し付けられ、クサヴァーからは「安楽死」という別の答えを渡された。

父から逃げた先で、また別の他人の理想を背負っている。自前の願いがどこにも見当たらないのが、この人物の一番きつい部分だと思う。

3. 最期の選び方

原作第137話、最終巻となる第34巻(講談社/2021年6月9日発売)に収録された決着がそれを決定づける。「死さえ存在しない世界」でアルミンと対面したあと、ジークはクサヴァーら歴代継承者の協力を得てエレンの体表に姿を現し——リヴァイに自分を斬らせることで死ぬ。

自分で幕を引くのではなく、ずっと自分を追い続けてきた相手に斬らせるという形をとった。長く因縁を重ねた二人の決着が、同時にジークにとっての救済になっている。ここで多くの読者が言葉に詰まる。

4. 兄として扱われた時間がほとんどなかった

エレンとの関係も、対等な兄弟としてやり取りできた期間は極端に短い。血縁はあるのに、最後まで「使う側と使われる側」の関係を抜けきれなかった。

じゃあ同情は的外れなのか

ここは正直に書いておきたい。ジークがやったことの被害は途方もない。獣の巨人としての行動が奪った命の数を思えば、「かわいそう」の一言で流していい相手ではない。

実際、同情論に対しては「加害の規模を軽く見すぎだ」という反論が根強い。この指摘は妥当だと思う。彼の境遇が悲惨であることと、彼の行為が許されることは別の話だ。

ただ、この作品はそもそも「同情できる加害者」を描き続けてきた。ライナーも、ガビも、エレン自身もそうだ。誰かの被害者であることと、誰かの加害者であることが同じ人物の中で同時に成立する——それを積み上げてきた物語の中で、ジークはその構造が最も濃く出た一人だった。

つまり「かわいそうだと思ってしまう自分」と「許してはいけないと思う自分」が同時に立ち上がるのは、読み違いではなく作品の設計どおりの反応だと言える。この居心地の悪さを引き受けさせるのが、この作品のやり方だ。

本音のところ

個人的な見解を言えば、自分はジークを「悪役として完成しきれなかった人」として読んでいる。

本物の悪役なら、自分の理想を自分の言葉で語れる。ジークにはそれがない。父の使命と師の思想の間を往復しているだけで、最後まで「ジーク自身が何をしたかったのか」が出てこない。

だから最期にキャッチボールの記憶へ帰っていく流れが刺さるのだと思う。彼が唯一自分の意思で欲しがったものは、思想でも復権でもなく、ただ誰かと投げ合った時間だった。

作中で最も壮大な計画を掲げた人物の、本当の望みがそこまで小さい。この落差が、読者の中で「かわいそう」という言葉に変換されているのだと考えている。もちろん、これは一つの読み方にすぎない。彼を最後まで許さない読み方もまた、この作品では正当だ。

これを同情と呼ぶかどうかは、読む人によって違っていい。断定できる話ではないと思っている。

まとめ|それでも進撃の巨人が面白い理由

敵役に対して読者がここまで割り切れなくなる作品は、そう多くない。ジークを「かわいそう」と感じてしまう居心地の悪さは、そのまま作品が何を描こうとしたかの証明になっている。

誰かを完全な悪として処理させてくれない。でもね、その不親切さがあるから『進撃の巨人』は完結から時間が経った今も読み返す価値があるんだと思う。


正直、この記事を書くために137話を読み返すのは3回目です。毎回キャッチボールのところで手が止まって、そのたびに「次はクサヴァーさん側から書きたい」と下書きが増えていく。困った作品だ。

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