HUNTER×HUNTER キメラアント編の賛否が分かれる理由|本音で語る3つの論点

で、本音のところ、どうなの?――HUNTER×HUNTERの「キメラアント編」は、シリーズ最高傑作と推す声と、一番ダレた長すぎる編だと言う声が、何年たっても綺麗に二分されたままだ。本記事では、賛成派と反対派それぞれの主張を3点ずつ整理し、ファンの間で何が論点になってきたのかを誠実に振り返る。最後に、データと両論を踏まえたうえで自分の見解も書いた。

何が論点になっているのか

キメラアント編の評価が割れるとき、議論の中心になるのはおおむね次の3点だ。

(1)ゴンの暴走(通称「ゴンさん」)は王道として熱いか、ご都合主義か
(2)主人公ゴンとラスボス・メルエムが作中で一度も会わない構成は是か非か
(3)第186話から第318話まで133話続いた長尺と難解な戦況解説は、緊張感かダレか

つまり「キャラ」「物語構成」「尺と語り口」の3レイヤーすべてで賛否が並走している。これがこの編の特異さだ。

賛成派の主張

ゴンの暴走は漫画史に残る一発だった

賛成派が真っ先に挙げるのが、カイトの死に直面したゴンが「制約と誓約」を極限まで自分に課して念能力を爆発させ、ネフェルピトーを圧倒する一連のシーンだ。「あらゆる理屈を一度ねじ伏せて、感情だけで強さに到達する」という王道の構造を、最も極端な形で見せた場面として語られている。

『キルアから見たHUNTER×HUNTER』のレビュー記事や、note上の長文考察でも「ゴンさん化は社会現象レベルの衝撃だった」という評価が複数回確認できる。SNSでも「ゴンさん」という呼称そのものがミーム化したことは、否定派でさえ事実として認める部分だ。

難解な念バトルが続いた後で、感情だけで全てを突破するシーンを置いた構成は、王道少年漫画の文脈ではむしろ正統だ、というのが賛成派の核心的な主張になる。

メルエムとコムギの最期は少年漫画の枠を超えた

賛成派が二番目に挙げるのは、ラスボスであるはずのメルエムが、致死毒に侵された最期の時間をコムギと軍儀(軍儀はメルエムとコムギが対局する盤上競技で、ピクシブ百科事典でも「帥」がメルエム、「忍」がコムギに対応すると説明される)を打ちながら過ごし、コムギの腕の中で息を引き取るという結末だ。

noteの考察記事「『生きる意味』」やpixiv百科事典の記述では、メルエムが「親(女王蟻)に名前すら与えられなかった存在」が、最後は他者との関係の中で自分の名前を引き受けて死ぬ、という構造が肯定的に整理されている。

「ラスボスの内面をここまで描いた少年漫画は希少だ」という賛意は、キメラアント編をシリーズ最高傑作だと推すファンの多くが共有する論点である。

133話の長尺だからこそ重みが出た

三つ目の賛成論点は、皮肉にも反対派の最大の不満点と同じものだ。「キメラアント編は133話あるからダレる」ではなく「133話あったからこそ、王と王直属護衛軍、そして人類側のネテロ・モラウ・ノヴ・ナックルらの背景がそれぞれ立った」と賛成派は主張する。

『神アニメランキング』の特集記事でも、メルエム誕生前と誕生後で物語の雰囲気が大きく転調するため、長尺でありながら中だるみを感じさせない、という評が確認できる。長尺は欠陥ではなく、群像劇として機能するための必要条件だった、というのが賛成派の言い分だ。

反対派の主張

ゴンの暴走はご都合主義に見える

反対派が一番強く指摘するのも、やはりゴンの暴走シーンだ。「制約と誓約」という設定は便利すぎて、結局は「気合いで何とでもなる」を肯定してしまった、という批判が根強い。アニメのレビューサイトFilmarksや、Amazonのカスタマーレビューでも、敵のインフレに合わせて主人公もインフレし、しかも反動で瀕死になった後にキルアたちの行動でほぼ全快する流れに「萎えた」という意見が一定数見られる。

賛成派が「王道」と評する同じシーンを、反対派は「念能力という設定の説得力を自ら壊した」と評する。同じ出来事を見て真逆の評価が並ぶ点が、この編の議論性そのものだ。

主人公とラスボスが会わない構成は、物語の主軸を奪った

反対派の二つ目の論点は、ゴンとメルエムが作中で一度も対面しないことだ。ニコニコニュース オリジナルなどのコラムでも触れられている通り、少年漫画の王道として「主人公がラスボスと対峙して終わる」展開を期待していた読者にとって、メルエム戦の中心が念能力者ではなくネテロ会長と「貧者の薔薇(ミニチュア・ローズ)」、そして致死毒という決着のさせ方は、ゴンの物語としての重心を奪っていると映った。

しかも、ゴンがピトーに到達する頃にはすでにメルエム戦の決着は別ラインで進んでおり、「ゴンの怒り」と「キメラアント編全体の結末」が物語的に直結していない。少年漫画の主役構造を解体する試みだったと評価することもできるが、反対派にとっては「結局ゴンは何を倒したのか」という疑問が残ったまま編が閉じる。

長尺と難解な戦況解説で読者を選ぶ

反対派の三つ目の論点は、133話という長さそのものではなく、戦況を一手ごとに解説する地の文が密度を上げすぎていることだ。Filmarksやanikoreの新HUNTER×HUNTERのレビューでも「グリードアイランド編までは読んだが、キメラアント編は途中で離脱した」というタイプの感想が散見される。

念能力の組み合わせ、円の範囲、隠による位置取り、こうした情報が地の文として一気に流れてくる。賛成派にとっては「緊張感の持続」だが、反対派にとっては「テンポを犠牲にした説明過多」だ。実際、Wikipediaのキメラ=アント項目でも、本編はたびたびの休載を挟みながら長期連載となったことが触れられており、リアルタイム読者にとっては「この戦況解説をどこまで覚えていられるか」という負荷も加わっていた。

客観データで見ると

主観で殴り合っても結論が出ないので、数字で見える部分を整理する。

キメラアント編は単行本第18巻第186話から第30巻第318話までの133話分にあたり、この数字は『まんが辞典』『west log』『千葉鑑定団 八千代店』などの記事で同一の話数範囲が一致して記載されている。HUNTER×HUNTER全体を通して見ても、一つの編がこれだけの話数を占める例は他にない。

アニメ版(2011年版)はFilmarksでシリーズ全体として高評価をつけられているが、レビューを編単位で読むと、ヨークシン編とキメラアント編の人気が拮抗しているのが分かる。Amazonのカスタマーレビューでも、5星は「シリーズ最高傑作」、低評価側は「ご都合主義の集合体」というパターンに二極化しており、星3〜4の中庸評価は相対的に少ない。

つまり「賛否が割れる」ではなく「賛否が両極に振り切れている」のがこの編の特徴だ。中間層が少ないというデータ自体が、この編の作劇上の異質さを裏付けている。

カケルの見解

正直に言うと、自分は賛成派寄りだ。ただし、反対派の言い分は全部ちゃんと筋が通っていると思っている。

ご都合主義批判は、念能力という体系を綿密に積み上げてきた作品として見れば確かに正論だ。ゴンの暴走は「制約と誓約」の説明としては成立しているけれど、それで何が起きてもよくなるなら、これまでのバトルで積み上げたルール感はどこに行くのか――その違和感は、この編を「念能力バトル漫画」として読んでいた人ほど強く出る。気持ちは分かる。

それでも自分が賛成派寄りなのは、キメラアント編が「念能力バトル漫画」というジャンルからはみ出した瞬間こそが、この編の到達点だと感じるからだ。ゴンの暴走は念のルールを破ったのではなく、「個人の感情が世界の物理を一時的に超える」という主題の宣言として読める。そしてその主題は、メルエムとコムギの最期で一回りして閉じる。「自分の価値を、誰との関係で引き受けるか」という問いを、ラスボスと主人公の両端で同時に走らせた構造は、少年漫画でなかなか見られない。

主人公とラスボスが会わない件についても、自分はこの編の弱点ではなく主題の一部だと思っている。ゴンの怒りはピトーに向かって閉じ、メルエムの生はコムギに向かって閉じる。その二つの閉じ方が交わらないからこそ、それぞれの感情が独立して成立する。とはいえ、これは「少年漫画の王道」を期待した人にとっては解けない不満だ。どう感じるかは読者次第だと思う。

まとめ — 何を持ち帰ればいいか

キメラアント編の賛否は、「面白いかどうか」ではなく「何を期待して読んでいるか」で決まる。念能力バトル漫画として読めば、暴走と長尺は弱点に見える。一方で、感情と関係を主軸に読めば、暴走もメルエムの最期も主題そのものになる。両方の読み方が成立するのが、この編が長く議論され続ける理由だ。だから「どっちかが間違っている」とは言い切れない。


でもね、結局のところ、これだけ長く本音で言い合えるってことが、HUNTER×HUNTERという作品の強さだと思う。賛否が割れるのは愛されてる証拠だ。

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